
コーヒーを飲みに行く時もその感覚にあったアクセサリー選びを
CALICORICO :アーティストの基準って?どこからどうアーティストと呼べば良いのか?
アーティストになるには例えば上手な絵を描けないといけない、売り物になるようなものを作れなくちゃいけない、とかっていう基準を作ったとしますよね、そのことにより、プロとアマチュアに分けてしまうのでしょうか・・・
私や綾さんは仕事の現場でアートを使っていますよね。そして綾さんは折り紙や水引を使った作品を作っているペーパーアーティストさんですがそれはどの部類に入るのか、カテゴリーに入るのかなど、どの様に思っているのかをお聞きたいです。
今日の話はこれが正しい正しくないではなく、このことについて一緒に考えてみませんかという対談形式でやっていきたいと思います。よろしくお願いします。
では、早速ですが、アーティストの基準をどういう風にお考えですか?どこからどういう人がアーティストって呼べるのでしょうか。
Aya: 私も色々とこの質問について考えてみまして、アーティストの基準というものがあるのかと問われるのならば、凝り固まった基準はないと思っています。例えばアーティストになるならば、ああでなければいけないそう在るべきだという枠に最初囚われていると、私の場合自由な発想ってかき消されてしまったんです。最初は自分の思い描く作品が作れませんでした。というのも、水引アーティストは伝統的なものを作らなきゃいけないとか、いろんな水引の結び方を知っておかなきゃいけないとかということに縛られてしまって私には当てはまらなくて。
もし自分の中でアーティストになる基準があるとするならば、伝えたいもの、表現したいものをそこに宿すことができるのならばそれが一番の基準かなと思います。
CALICORICO:やっぱり美術大学に行って美術館に展示されるような作品を作っている人だったり、デザイナーの方だったりアート関係の仕事をしていらっしゃる方々とかいらっしゃいますが、じゃあその方々全員がアーティストなのですかという話になるんですよね。一般にアーティストと呼ばれる方々は、やはりその線引きはあるでしょうということになることもしばしば。私は、個人的に“アートは言語である“と思っています。特に私は、子どものアートというのは自己表現以上のものであるということを小さな学術誌にて発表していますが、言語なので人を知る、相手を知る、相手が何を意図しているかを知るためのものである、道具以上ですよね。そして、「つくる」というプロセスの中で相手の思考を読みとったりコミュニケーションの道具として使tたりと、教育学的なリスニングに使えると思うのです。アート自体が出会いの場、気づきの場であると思っています。そういうふうにアートを見ているとアーティストの基準や感覚が変わってくると思うんです。
一つのことをやってお金を稼いだり、大学でアート的技術を教えたりするアーティストも、もちろんいます。では、私たちが言っているアーティストとはどの分野や部類に入るのですか、というお話になります。この事についてはどう思われますか?
AYA:保育士をしていた時の話ですが、3歳から5歳の子どもたちと絵の中での対話を楽しんでいたものですが、先生達の中には、やはり3本線を書いた絵よりもっと込み入った絵を描くように仕向けたりする方もいました。その絵に語られているものはそれを受け取る側にとって捉え方が全く違うんですよね。

CALICORICO:受け取り側って大きいと思います。では、アーティストは他者が認めるのかそれとも自分が認めてアーティストになるのか、それとも自分、他人両方が認めて初めてアーティストトなるのか、そこらへんはどう思われますか?
AYA:ある一種の表現者としてアーティストが成り立つのであれば自分をアーティストと呼ぶ違和感は感じないのだけれども、誰かに認められる方にフォーカスを当ててしまうと自分自身が納得した物を作れなくなるので誰かに認められてアーティストになるのは私にとって違うのかなと思うんです。
CALICORICO:私は、以前小さい子ども達と働いました。特にイタリアのレジオエミリア教育もそうですけど、小さい子どもたちはアーティストであるとよく言われています。小さい子どもたちは、大人が一般に考えているアーティストの基準に外れているといえますよね。彼らはアートの学校にも行っていないし、自分で私アーティストなんですよって言わないじゃないですか。もうアートというその全てのことが身体に染みついていますよね。それを大人たちがそれは上手、あなたはここが出来ていない、というふうに価値を付けて上乗せしていくじゃないですか。それについてはどう思われますか?
Aya:本当その通りです。大人が勝手に価値を付けているだけなんです。
CALICORICO:このような大人のすりこみのようなもので、子どもが、私は絵が下手だから私はアーティストじゃないんだ、と言うような考え方が育つのではないかな、と私は思うんですよね。
そういうふうに大人が勝手に決めたアーティストの基準が影響してるのかなって思うんです。
AYA:それは大いにあると思います。完成されたものに対しての大人からの感想ってかなり響くじゃないですか。人からはこういう風に思われてるんだ、ってそれが私への評価って間に受けてしまうんですよ、子どもはね。そこから自分のアートに対する自分への見方も変わっていく(構築されていく)のかなと思います。
CALICORICO:あなたの絵は下手とか2歳の子どもは絵がそもそも発達上描けないとか、幼児発達学や心理学の世界ですよね。2歳の子ども全員が同じレベルで絵を描くわけではないと思います。個人差がありますよ。子どもは、アーティストだ、という人もいれば、ある程度のスキルが無いといけない、というふうに決めつけることで子どもがアーティストのままでいられなくなるような状況を構築しているのかもしれないですね。
AYA:それが一番の子どものアーティスティックさを無くす要因だと思います。
CALICORICO: アーティストと自分で呼んだとしましょう。その分野によってアーティストの分野によってその内容が変わってきますが、例えばコンテンポラリーアーティストもいれば、工芸作家やダンサーアーティストさんもいらっしゃいますが、そのアーティストとしての使命、ミッションってどんなものだと思いますか。
AYA:人間が生きる事において、根本的な人生が面白いなーって思えるスパイスを提供することかなあと思ったんです。ゼロからのクリエイションをしていくにあたってそこから熱量が出てくるんです。そして自分自身が面白いなあと思うことをやっているのでそれを伝えることにもなるのかなって思っています。
CALICORICO:じゃあこのスパイスって誰のためと聞かれたらどのように答えますか?
AYA:正直いうと自分のためです。自分のためが周りに影響していくのかなと思っています。(キッパリ)
CALICORICO:綾さんのアーティスティックな考えというのは自分のためや自分の人生の為、それとも生きるためともいうのかな?
AYA:いわば愛の放出という感じです。自分へ愛をそして周りにも愛をというような愛のスパイス。

CALICORICO:じゃあ例えばAYAさんの作ったペーパーアートを身につけた人っていうのは気分も上がるし、その方の見た目も変わるし、と言うようなそういうお手伝いをするっていう感じですか。
AYA:そうですね、私、コンセプトがありまして、“その人に寄り添えるような作品を手がけること“と決めていて、私たちの作品を選んで頂いた方々の1日に彩りを添えられるような作品を作るということを念頭に制作しています。
CALICORICO:今コンセプトって出たのですが私はコンセプトってとても大事だと思っているんです。アーティストとしてコンセプトを考えてやっていなかったとしたら、ぼやけてしまうと思うんです。コンセプトがないアートを見たら何か足りないなぁ、と感じてしまうんです。
AYA:最初は私もコンセプトなしにただ楽しいから作品を作っていたんです。けれど元の材料を使いこなしてきたり、いろんな方と会うようになってきたり、作品を日々作っているうちにコンセプトっていうのがどんどん生まれてきたんです。それを持ってやっていけばいいんだと思った瞬間にアイデアがどんどん出てくるようになったんです。だからコンセプトが動き始めるって言う意味がすごく良く分かります。
CALICORICO: そうなんですよ、例えば、アーティストの使命とは?と問われたなら、私は社会貢献ですと答えますね。コンセプトがアートの中に生きるようにアートを作っていく。それでそのコンセプト自体が作品の外に歩き出す、命を吹きかけてもらって社会に出ていくという考えなんです。
では綾さんの場合、アート活動をすることによって心がけている事はなんですか?
AYA:私の場合気分が良い時、体調が優れているときにしか作業しないと決めています。というのもその日のムードが作品に現れてしまうんです。例えば、花の形がいびつになったり、色合わせがうまくいかなかったりするので。手をかけて作るので作り手の思いその作品に宿る、なのでその良い気分で作ることで先程のコンセプトにある、その人に寄り添えるような作品が産まれるんです。
CALICORICO:なるほど。アートって生活に欠かせないものじゃないですか。でもね、アートって無視されがちじゃないかな?って。アートの価値観ではなくてアートが自分の生活の中にあるその中で見出している大切な価値観ってAYAさんにとっては何ですか?
Aya:これ言い方乱暴なんですけど、アートって無駄な何かから始まっていると思うんです。時間と空間が無駄にあればあるほどそのモノを繊細に見られたり美しさを追求出来たり。なので逆に言うとムダな行為、ムダな時間っていっさいないと思わせてくれるのがアートのある生活だと感じています。